2010.06.06

日本料理のこと part3


アンリエルルカンの庭はつつじの花が散り始め、あじさいの気が小さなつぼみをつけました。
今年は奥の石垣前に昨年植えたあじさいアナベルが白い大きな花を咲かせるでしょう。

前回のブログから少し間があきましたが、
私が思う、青柳小山氏の料理哲学と、言っても一部を書いてみます。
青柳小山氏は日本だけでなく世界中で注目を浴びている
新日本料理ムーブメントの立役者とも言える人物です。
今から16、7年前に伝統的ではあるが、他国の料理人には
一部しか理解されていなかった日本料理の真髄を
パリでの料理講習会や一流ホテルでの料理フェア
外国向けの料理本の出版、そして三つ星シェフとの親交など
料理人レベルから見た真の意味での日本料理の普及に一役買った人物です。

次回へ続く・・・



posted by 伊東淳一 at 18:07 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010.04.24

日本料理のことpart2


青柳では、新入社員の事を一年生と呼びます。
私も32歳にして一年生。
同期の奥田君は23歳、他2名はまだ10代の若者。
朝8時に本店に出社し先輩が出社する前に準備をすませます。
本店はほとんど休憩なし。
夜の12時半に食事をして
一年生は、山の紅葉の葉を取りに行く者、山のわき水を汲みに行く者
かつおぶしの血合を取り除く者に分かれ、夜の一時半から二時まで仕事をします。
私は平成学園(青柳経営の調理師学校)の授業がある日は
仲間達が仕事を変わってくれ、少し早く帰れました。
とにかく毎日が忙しく、朝から晩まで働きづめ。
弁当の出前がある日や、お茶事の時などは早朝出社や徹夜が頻繁にありました。
本店が休みの日は、そごうデパートにある支店に出社し
休みは月に3日から4日取るのがやっとでした。
毎日、全員のまかないを作り、洗い物をし、先輩達の補助をし
学校にフランス料理を教えに行きました。
仕事が終わると、山本君や奥田君とフランス料理の話をし
技術や料理哲学を熱く語りました。
また小山イズムというか、青柳の料理哲学を皆必死に身につけようとしていました。
休みの日や日曜日の夜は、食材を自前で買って皆で研究したりもしました。
私達3人(伊東、山本、奥田)は他店から来たため
外人部隊とも呼ばれ親方からはとくに厳しくされました。
その時の苦労が今、彼らの力になっているとつくづく思います。

part3に続く。。。
posted by 伊東淳一 at 19:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010.04.10

日本料理のこと part1


今回は日本料理について、私の思うことを書いてみます。

そもそも、私が料亭青柳に入社したのは1994年。
今から16年前のこと・・・
当時私は、大阪でフランス料理店ポンマリーのシェフとして2年目を向かえていました。
お客様やオーナーにも大事にされ、充実した日々を送っていましたが
夢に向かってがむしゃらに努力していたヨーロッパ修業時代の刺激的な日々を懐かしむ思いや
毎月、自らの生み出す料理がグランメゾンのレシピのアレンジの枠から抜け出せず
自分の中の料理の壁を越えたいという思いから、
再度渡仏し、当時のトップレストランであるロビュション、又はミッシェルブラスに
仕事のオファーを入れるか、未知の世界である日本料理の世界に飛び込むか迷っていました。

その頃、青柳の小山氏がパリのプラザアテネで開いたフェアーの記事を読み
その料理哲学やフェアー料理の写真の素晴らしさ、斬新さを感じ
この人の下で修業したら、自分は新たな料理の世界に進めるかもしれないという
漠然とした思いから手紙を出しました。

面接で、来るなら見習い待遇という事と特別扱いはしないという条件で
瀬戸内海を渡りました。
当時、青柳にいたのは、凄腕の青柳はえぬきの先輩達と
まだ20代前半と若く他店から来たばかりの小十の奥田君、龍吟の山本君
そして青柳の経営する調理師学校には神田の神田さんがいました・・・

part2に続く。。。

posted by 伊東淳一 at 13:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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